胡乱な日常の真相
 
偶然と必然の日常をレビュー。
 


今が危機であるということについて。

今が変革で激動の時代であるということは、毎日ただ働いているサラリーマンにはまるで現実味のないことである。
サラリーマンは朝起きて働いて夜帰ってきて寝るという生活を繰り返しさえしていればいいだけだからだ。
そして、ある日、気が付くのである。
「なんだか最近の世の中は居心地が悪いな」と。

それは何も他人事ではないのである。
だから、会社の中で、一つの技術のみを身に付けてずっと居座っているような人たちを見ると、警告したくなる。
別に技術が一つしかないからだめ、というわけではない。
技術を二つ三つ、もっと持っていたところで、その人がこれからどうしたいか、とういことがなければ意味がない。
僕が思うに、ソフトウェア産業(業界)というところは、非常に閉ざされていて、技術さえあれば(もしくは、たいした技術がなくても)食っていけるという迷信のようなものがあるのではないだろうか。
実際のところ、その図式はすでに崩壊しつつあるし、会社に依存しきっているような人たちはだんだんと肩身の狭い思いをしつつある。
それでもなお、多くの人は(特に家庭を持っていたり今から新しいことをすることが億劫な人たち)、
安穏として毎日を過ごし、決められたルーチンワークをこなし、定時には帰っていくのである。
そこに疑問はない。
今の生活さえ守れたらそれで満足なのだ。
でも、その生活はいつまで守られるものなのだろうか?
そこに保証は?

僕がよく思うのは、今の仕事以外に、常に何か他の道を探しておくべきだ、ということだ。(何かの本で読んだか、誰かから話を聞いたのか忘れたが)
仕事をやめる、会社を辞めるというのはまた別の話であり、自分には他に何ができるのだろう、何がやりたいのだろう、ということを常に意識しておくべきだと思う。
そうでなければ、たとえばいきなりリストラされた時(もしくは転部させられた時)に、ふと我に返って、さて、自分には何が残っている?と思うことになる。
特に、情報系産業は、社員がある一つのことに特化する傾向にある。
この人はこのプログラム言語。
この人はこのパッケージソフト。
では。
その会社をリストラされた時に、それはどこまで世間に通じるのだろう?
誰がその価値を評価してくれるのだろう?
たとえば、その人があるパッケージソフトの開発をしていたとして、そんなものは、他の会社からしたら全く意味のないことなのだ。
「私、前の会社でパッケージソフトを開発していたんです」
「で?」

別に転職を勧めているわけではない。
ただ、今の仕事とは全く別の方面にも目を向けて、可能性を探る必要があるのでは、ということだ。
僕の勤めている会社を例に挙げるなら、
  ①典型的な中型の情報系会社
  ②社内の雰囲気はぬるま湯
  ③社員にハングリー精神はないし、上層部ですら怪しい
  ④社員数だけが多くて、非稼動の人間もいる。生産性は極めて低い
  ⑤利益なきプロジェクトを営業が取ってきて開発に丸投げするので、赤字プロジェクトが多発
  ⑥危機感はまるでない
という状況だ。
さて。
こういう会社がこの先どういう末路を辿るのか、そして安穏とした生活に胡座をかいている社員たちがこの先どのような状況に陥っていくのか、それは想像に難くない。

ニュースや新聞で『変動の時期だ』といわれても実感はない。
でも自分たちのうかがい知らない所では確実に変化が起こっていて、それはいつの日か、自分へとブレイクダウンされて、突如現実の問題として眼前に突きつけられるのである。
その時に人ははじめてうろたえるのだ。
もちろん、今やっている仕事は仕事で社会にとって必要なことだろうが、心のどこかで、それが全てではないと第三者的、俯瞰的視点で自分を再考することは必要なことだと思う。
それができている人が、どれだけいるだろうか。

僕たちは現在、望むと望まざるに関わらず、知らず知らずのうちに岐路に立たされているのである。



4月24日(日)18:57 | トラックバック(0) | コメント(0) | その他 | 管理

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