胡乱な日常の真相
 
偶然と必然の日常をレビュー。
 


地獄と、ちょっと地獄。

世の中には地獄がある。
携帯電話開発の現状
かなり長いが、暇な人は読んでみてほしい。
どれだけ開発現場が悲惨で地獄か、痛いほどによくわかる。
これに比べればまだ今の環境は天国だ。
・・・いや、ちょっと地獄、ぐらいか。

こういう業界ってのは、なんというか、人間的じゃないよね、と思う。
生きることの意味というのを真剣に考えてしまう。(そういう意味では、修行にはなるかもしれない)
自分を消費して結局それが誰かのためになるという実感もなく。
夢もなくて先も見えなくて。
そんな毎日を送ることになってしまう。
人間とは思えないような生活。
何かを守るとか、何かを助けるとか、そんな余裕もなくて、自分が生きていくだけで精一杯。
世の中の便利さってのはそんな膨大で悲壮な労力の上になりたっているのだ。

だから皆さん、コンビニで少々レジの調子が悪かったり、スーパーの特売品が清算のときに値引きされてなかったりしても、あんまり怒らないであげてください。
ちょっとぐらい携帯の動きが遅くても納得してあげてください。
その裏ではいろんな人が頑張っているのですから。



4月15日(金)01:55 | トラックバック(0) | コメント(4) | 仕事 | 管理

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コメント

法人という人

ゆとり教育を目指し、学力低下して、もとに戻る。
ぎしぎしやられるのは個人としては嫌だが、企業として他と契約となったとたん、結果が重要になる。もちろんその結果をだすためのプロセスもISOだのISMSだので、色々と縛りが出てくる。企業、つまり法人という名の人・・・こいつは一体なんなんだろう・・・?こいつを維持するために自殺者がでることすらある。リストラがあったり。
だからといって、消費者という立場になるとにっこり許す、とはならない。お金を払ってサービスを受ける立場だからだ。法人に対して責任を追及するとそれは必然的にその構成員である従業員に追及の手が伸びる。社会の要請だの社会の流れだの言うが、それは一体だれが作り出し、誰のためになっているのだろうか?
考えれば考えるほど悩ましい。


 by 村崎武龍 | 4月15日(金)13:29

メビウスの輪。

サラリーマンというのは抜けられないメビウスの輪の中に捕らわれているんじゃないかと思う。
一度その輪の中に入ってしまうと、給料やら責任やらいろんなことが足に絡まって、そこから抜け出せなくなる。そこがいくら居心地が悪くても抜け出すのにはかなりの労力がいるし、次の仕事も見つけなければならない。だからみんな不平不満、愚痴をこぼしながらもその会社の利益のため(本人はそんなつもりではなくても結果的にはそうなっている)にせっせと働く。
職にしがみつく。
もっと大きく見るなら、社会という名の巨大な輪の中に捕らわれているのではないか、とも思う。
そこから抜け出すことは現実的には不可能だし、誰だって人とつながりを持っている限りは輪に接している。
でも。
その中でも自分のルールで動くことだってできるのだ。なにもその会社の中だけがルールではない。
僕たちは悲しいぐらいにそのルールに縛られているけれども、結局はそれは『世の中の常識』という全く形のないもの(権力者に都合のいいもの)でしかない。
僕には僕の。ある人にはある人の、ルールを確立すべきなのだ。
それは言い換えれば、『自立(自己の確立)』といえるかもしれない。


 by もちくん | Mail | HP | 4月16日(土)03:25

音楽に似ている?

メビウスの輪、ね。なるほど。
うまく言い当てているかも知れませんねぇ。何かブレークスルーが必要なのかもしれませんね。それは現状のシステムの延長線上では難しいものなのかもしれない。
例えの良し悪しは別にして、それは音楽に似ているのかもしれない。西洋音楽の理論で構築できるものには限界が来ているという。音を重ねて構築物として作り上げる音楽である。もう重ねようがなくなっている。
これが11世紀頃に遡ると和声をとらない旋法による音楽が編纂された。娯楽としての音楽ができるのが20世紀だから、それはまだ神にささげる祈りとしての歌であった。祈歌、今で言う聖歌である。声明のヨーロッパ版とでも言えばいいのだろうか。それらは地中海全般にあり、東方教会聖歌とよばれる。編纂したのはグレゴリウス1世。そうグレゴリオ聖歌といわれるやつだ。グレゴリオ聖歌が何年か前に流行ったが、行き詰る進化の分岐点まで戻る、あるいはそれ以前に戻るということは意味のあることなのかもしれない。
われわれのシステムがメビウスの輪になって、行き詰っているとすれば、その進化の枝はどこで分岐したものなのだろう?


 by 村崎武龍 | 4月18日(月)10:59

二重の輪。

なるほど。勉強になりました。
音楽好きの村崎さんらしい切り口ですね。

音楽しかり、ファッションしかり、世の中は大きくゆるやかなループを描いている。
一昔前にロックンロールが一世を風靡して、また今癒し系といわれているヒーリング的な音楽が流行り、ゴスペルやジャズなどの生音のよさが見直されつつある。ロックは死んだ、なんていわれたけれど、ロックはまた徐々に力をつけていずれ台頭するに違いない。
ファッションにしても、大まかに言えばロングスカートが流行る時期とミニスカートが流行る時期との繰り返しである。流行色にしても同じこと。
そう考えると、僕たちは『時間』という名前の大きな輪と、『社会』という名の、これまた大きな輪に二重で縛られているのかもしれない。
ここから抜け出せる人はごくまれである。とてつもなく強い自己を持っている人か、天邪鬼な人(天邪鬼な人はある意味ではこの輪に一番束縛されているのかもしれないけど)だ。

村上春樹曰く、『(昭和49年は)金はないけれど就職もしたくないnという人間にも、アイデア次第でなんとか自分で商売をはじめることができる時代だったのだ。』そうだ。
現在もまた時代の回転が一回りして、そんな時代になっていると思う。
家にパソコン一台あれば、アイデア次第でなんでもできる。そんな時代だ。あとは時代の波をサーフする先見の明と、やる気。それがなかなか難しいんだけど(笑)


 by もちくん | Mail | HP | 4月19日(火)01:12


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