胡乱な日常の真相
 
偶然と必然の日常をレビュー。
 


テレビを消すということ。

朝起きると、とりあえずテレビをつける。
家に帰ると、とりあえずテレビをつける。

この『とりあえず』というのがクセモノで、無意識のうちちにテレビに視線をとられて、いつのまにやら時間がたってしまう。
たぶん、僕の人生の中で一番の時間の無駄使いはテレビを見た時間だろう。

確かに有益な情報もあるし、おもしろくて笑えるときもあるんだけど、大抵が見ても見なくてもいいようなものだ。
自分の好きなものだけを絞ってみればいいのだけど、いつのまにかチャンネルをパチパチと変えながら違う番組を見ているのだ。
あれがテレビの怖いところだ。たぶん、チャンネルを変えるのに5分かかるようなシステムがあれば、僕のテレビを見る時間は激減するはずである。
あの手軽さがいけない。
テレビをつけるのだって、ボタン一つで簡単にできてしまう。毎回5つのパスワードを入力しないと見れないようになっていたら、めんどくさくってみないだろう。

一度、真剣に「なぜおもしろくもないのにテレビをつけるのか」と考えたことがある。
結論としては、「視界に動きが欲しいから」だ。
一人暮らしをしていると(一人暮らしじゃなくても)、自分の部屋の中では動くものがない。たとえ音楽をかけていても、それは聴覚を刺激するだけで、視覚にはなんの刺激もない。
すると、いろんなものが停滞して、陰鬱に感じられてしまう。
それが寂しくて、なにか賑やかにしてやろうという思いで、ついついつけてしまうのだ。
効果的といえば効果的なのだけど、効果がありすぎて困る。
面白い番組が終わっても、その時間帯にやっている中でもっともましな番組(面白い番組ではない。ましなだけだ)を探して無理矢理に見てしまう。そうなるともう抜け出せないチェーンにはまる。そのうちにまた面白い番組が出てきてまた消せなくなる・・・という悪循環。物を捨てるのが難しいように、テレビを消すのもまた難しい。
もう一つの理由は、これはごく個人的なことだけど、小さい頃にあまりテレビを見せてもらえなかった、というのがある。これは兄とも意見が一致しているところだ。その時の反動で、自由にテレビが見れるようになるとたがが外れて、延々と見てしまうのだ。
これはテレビは毎日30分だけ、と時間制限をされていた人にしかわからないだろう。

最近はこれではダメだ、と思って、テレビを消して、電器を暖色系にして、音楽をかけるようにしている。そうすると、結構時間がまったりと流れていつもより時間がたっぷりあるような感じになる。そして、いつもテレビで結構な時間を無駄に過ごしているんだなぁ、と実感する。たぶん、忙しい毎日の中にはそんな時間もまた必要なのだ。

そんなことを言いながらもやっぱり朝起きるとついスイッチを入れて見てしまう。
ならコンセントを抜いておくか、いっそのこと捨ててしまえばいいのだけど、それはそれで見たい時に見れないから困る。なんともわがままな話だ。

そんなことで、僕の中での『大人』の定義は、
『テレビを簡単に消せる人』である。



5月10日(火)01:56 | トラックバック(0) | コメント(5) | 日常 | 管理

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コメント

こどもの目

妻が言う「最近周囲の子供の目が魚のようだ」。うちの子供の目はきらきらしている。自然環境で野放しに近くTVは見せていない。
地域のアンケートによると親がTVをつけっぱなしにしているせいで、こども(1歳児~3歳児)のTVを見ている時間は数時間に及んでいる。
子供の目の輝きがそれと関係あるかどうかはわからないが、TVは最近言われる子供のゲーム脳との関連が気になるところ。自分の意思とは関係ないところで勝手に反応し展開していく垂れ流しの情報にさらされていると、前頭葉が発達しないらしい。
子供が生まれたらみなさんはTVをどうするだろう?


 by 村崎武龍 | 5月10日(火)11:34

TVのもたらす弊害。

もうこれは数え上げたらきりがない。
どこかでゆっくりと腰を落ち着けて書こうかと思っていることの一つです。
まぁ、世の中で嫌ほどそのことについては書かれているのであえて書くこともないんだけど、自分の意見を整理するという意味で。
とりあえず一つ挙げるとするなら、受動的になることでしょうね。テレビというのは全て与えることで完結するから(要は垂れ流しですね)、それを見る人はどうしても受動的になる。こちらからアクションを起こしてなにかを伝えようとしなくてよいのだから。だから、一人でいることが苦じゃなくなるし、人と話さなくなる。全ては向こうの世界の人たちが話し掛けてくれ、こっちはそれをみて笑ってるだけでいい。話すということはなんらかの情報を発信するということだ。
でもテレビに向かっては情報を発信する必要は全くない。嫌でも受動的に成らざるを得ない。
ということで、やっぱりテレビを見ると能動的にはなりにくいんじゃないかなぁ、と思う。
インターネットと結びつけて・・・、とか双方向放送で・・・とか言っているけど、根本的には変わらない気がする。
でも、「俺も情報発信してやるぜ!おもしろい番組作って笑わせてやるぜ!」みたいな能動的な人がいっぱい出てくればおもしろいんだろうなぁ、と思う。テレビを見てそう思う人が増えれば、それはテレビのいいところだろう。残念ながら、今はそういう番組があまりないけれど。
インターネットってのはそういう可能性を秘めているし、そういう意味ではいい時代なんだろうなぁ、と思う。手軽に自分で作った放送なんかがストリーミングで配信できたりするし。

ちょっと本題からずれてしまいましたが、やっぱり僕も、自分の子供にはあまり見せたくないですね~。むしろ、自分でやってみ~、というスタンスがいいかなぁ、と思います。そっちのほうが絶対面白いと思う。(実は受動的な快楽よりも能動的な快楽のほうが喜びは大きいと思うのですが、どうでしょう?)


 by もちくん | Mail | HP | 5月11日(水)03:05

癒しとの関係

平山満紀は「90年代初頭から、日本では実にさまざまな活動や事物が、癒し、ヒーリングという新たな意味づけを得て人々の飢え渇く要求に応えていった。」とし、その「深さ浅さを含みながらとらえどころのないほど多岐にわたっている」状態を下記のように分類整理を行なっている。
---------------------------------------------
自己表出性 自己省察性

  低い     低い     :グッズ・サービス消費

  高い     低い     :語りのない自己表現

  低い     高い     :物語消費

  高い     高い     :自己語り
---------------------------------------------
上記の両方とも高いものが癒しの度合いが高いわけだ。そうすると必然的に能動的なものの方が良いわけだ。
快楽に限らず能動的であるべし。って感じですね。


 by 村崎武龍 | 5月11日(水)10:54

癒し。

う~ん、なるほど。
癒し効果ですか。
何事も、与えられるよりも自ら行動して得たものの方が価値がありますからね。インスタントな世の中だけど、そういう簡便性だけじゃなくてもっと、自分の意志で行動することが重要なんでしょうね。
だから、癒しってのがただただ溢れて、簡単に手に入る世の中ってのは本当はおかしいのかもしれない。
癒しって言葉はそれ自体、受動的な響きがあるけれども、実はもう一歩踏み込んで、自分が癒されるためにはどう動けばいいか、何が自分には必要か、ってことまで考える必要があるのかもしれない。
ただ癒しグッズを買い集めたところで、それはインスタントに消費されていくだけのことのような気がする。それは結局は自分を消費していくということで。そんなのよりも、もっと自分で納得できる生き方を探したほうが実は効率がよいのでは、と思ったりもする。


 by もちくん | Mail | HP | 5月12日(木)02:38

心身の健康のために

ということで、
面倒くさがらずに、自炊しよう!(笑)
これが究極の癒し?(爆)


 by 村崎武龍 | 5月12日(木)10:44


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