胡乱な日常の真相
 
偶然と必然の日常をレビュー。
 


結婚式。

10月2日。曇り。
なんともめでたい日だった。
中学校からの友達が結婚するということで、結婚式に呼ばれた。
そしてもう一組、会社の同期が結婚した。
一日に二組も結婚するなんて。
残念ながら体がひとつしかないため、同期の結婚式にはいけなかったけど、それでもやっぱりめでたいものだ。

僕が参加させてもらった友達の結婚式は、盛大ではないにしても、しっかりと手順を踏んで、やるべきことをちゃんとこなしたいい結婚式であったと思う。
BGMも自分で決めたようで、なかなかいい選曲だったし。(といっても、100Sとかサニーデイサービスとかくるりとか、ちょっとマイナー系だったから、親戚のおじちゃんおばちゃんにはわからなかっただろうけど)
二人の心遣いも行き届いていて、気持ちのこもった式だったと思う。
まぁ、そんなことよりもやっぱり二人が本当に幸せそうで。それがやっぱり一番印象深い。ここまで来るには色々あったんだろうけど(式の準備や新居の準備とかだけでもかなり大変だったに違いない!)、今、二人がこうしてちゃんと二人でいることに感動した。
うまく伝わるかな?この感じ。

式の詳細はブログで書いても仕方がないので、やめておく。
それを読んでどうということはないだろうから。
それにその雰囲気を忠実に再現して皆さんにその感動を共有させてあげられるほど筆力もない。
往々にしてこういう感動というのは参加していない人には伝わらないものだから。

なので、ちょっと思ったことだけ。
結婚式とは壮大なる二人のわがままである。
やっぱりあれはなんと言おうと、あれだけの人を一箇所に呼んで、何時間も拘束するわけだから、わがまま以外の何物でもないと思うわけである。(悪い意味ではなく)
出し物をする人は食べ物も喉を通らないし、スピーチする人はずっとその練習をする。
そういうわがままは結婚式と葬式だけに許される強制権で、参加者はそれがわかっていながら参加して、祝福するわけである。
だから結婚する人は、その人たちの気持ちを無駄にしてはいけない。
祝儀をもらって引き出物を返して、お金の上ではトントン、とよくいうけれど、それだけじゃないと思う。
そこにはもっと神聖で厳かな何かが(たとえば気持ちの塊が)あるのではないか。
結婚してないくせに偉そうにいうが、客観的に見るからこそ、そう見えるのかもしれない。

まぁ、要は何がいいたいかというと、
『みんなで君たちのわがままに付き合ったんだからその分幸せにならんとあかんぞ!!』
ということで。(誤解されると困るけど、別に押し付けがましいわけではありません)
二組の夫婦が末永く幸せでありますように。


新郎から「次は君やな」と言われたけど、なにせ無職だからなぁ。。。(笑)



10月3日(月)08:50 | トラックバック(0) | コメント(3) | イベント | 管理

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コメント

結婚

結婚というのはよいですね。
いろんな経緯があって結婚に至る訳だけど、それはゴールではなくて新しいスタート。これってよく言われる話で、なんとなく、まぁそうなんだろうなぁと思っていても、実のところ結婚したてはいまいちピンとこない。
私も子供ができてやっと最近それを実感している。
先日結婚記念日だったのだが、子供が二歳だと、外で祝うのも大変。デパ地下でおいしいもの買い込んできて祝った。結婚十数年のお祝いです。普段は会社勤めでなかなか子供の面倒を見れない。子供がよく育っているのを見ると、感謝の気持ちで一杯になる。子供のことを通して夫婦という形を改めて考えてみる。やはりそこには感謝と尊敬というのが必要だ。子供にまず教える必要があるのは人間関係でそこではやはり感謝と尊敬が必要になるなぁ、そんなことを考える。そんなことを考えていると、結婚とはやはりゴールではなくスタートだったんだなぁと実感。


 by 村崎武龍 | 10月11日(火)15:38

妄想と実感。

僕なんかは、結婚っていうのはなかなか面白そうだなぁ、と思います。(僕の判断基準は面白いか面白くないかなので(笑))
好きな人と一緒に住む、一緒に暮らす、一緒に家庭を築く、一緒に子供を育てる。
どれも面白そうだなぁ、と思います。
なんというか、化学反応的楽しさというか。
今まで一人で生きてきたのに、それが他の人の生活と一つになる。そこには反発もあるだろうし、融和もあるだろうし。
子供って言うのはその最たるものだと思います。二人の間にどんな子供が生まれるのか。こんな面白いこと(といっては不謹慎かもしれませんが)はないでしょう。そこには責任が生じて、それは当然負わなければならないですが。
と、いうのが僕の妄想(笑)結婚っていいよね~、っていう妄想です。
でも現実はどうかと言うと、僕は結婚したことがないのでわかりません。だから実感もない(当然)。
自分が結婚したとき、どんな風に思うのか、これは結構楽しみな部分である。

でもよく考えてみると、一緒に暮らすとかは結婚しなくてもできるといえばできなくもない。ということは結婚っていうのは契約なんだなぁ、って思いますね。
一緒に住むだけなら二人だけでもできる。でも結婚は家同士のものだから云々・・・というのはよく聞きます。でも契約っていうだけで終わらせると、それは味気ない。もっとそこには温かいものがあっていいと思う。まぁそこは二人次第なんだろうなぁ。


 by もちくん | HP | 10月12日(水)09:28

はは

そういう妄想はいいんじゃないの(笑)。誰しも持つ妄想で、実態がそれに近いほうが良いのは事実。
一緒になって起こる化学変化はお互いが似ていても似ていないところがいいって場合でも起こる。きっと起こる。化学変化の激しさ度合いが違うけど。
どんなに気があってもやはり一緒に暮らすと文化の違いを感じる。家庭ってのはやっぱり小さな社会なんだなぁと、実感する。文化が違うのだ。ちょとしたことで。出身地方が異なればその差は大きいんだろうなぁ。
だからというわけではないが、結婚する人に私はこう言う「結婚はビールみたいなものだ。はじめは苦いがその苦味が旨みに変わる」と。
結婚は契約という考え方もある部分ではそうなんだろうなぁ。しかし、欧米ほどの厳しい契約ではない。つまり結婚のときに離婚時の財産分与などをあらかじめそれこそ本当に契約で結んだりしている。日本でもそういう例は出てきてるようだが、まだまだ少ないのではないだろうか?
結婚はやっぱり法的保護の保護度合いが違う、というのが大きいんじゃないかなぁ。これもかつての「家制度」の名残ですね。ただ、まぁ、結婚によって(当の本人たちはいいとして)両家の家族・親戚などは付き合いが始まる(関係性が変化する)わけだからその変化を権威によって調停しようというものが神前での結婚式であった。そう考えると、書面での結婚というよりは儀式としての結婚というのは納得感がある。最近流行の宗教色を排した人前式の結婚式は立ち会ったみんなが賛同するというものだからそれはそれでありなんだろうな。関係性の変化を神に調停してもらう必要がない、と考えれば最近の人は関係性の変化に寛容になったととることも可能だろう。見方によっては昔ほど両家の交流が薄くなり、甚大な関係性の変化がなくなってるともとれますね。これはまぁ本人たちの意向だけでなく、両家のそれぞれの文化によって変わってくるところだ。


 by 村崎武龍 | 10月12日(水)17:10


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