真実について。 |
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| 真実について。 私たちは真実というものについて、明らかに不勉強である。 真実とはなにか。 私たちは、目に見えているものが真実だと思いがちだが、実はそうではない。 目に見えないものしか信じないという人がいるけれど、それは単なる妄信に過ぎないのである。 真実を分子レベルで考えてみればよい。 私たちは鉛筆で線を引いて、それが線であると思う。 しかし、分子レベルで見れば、それは単なる炭素分子が紙の上に点々と置かれているだけであり、それは実のところ全く線でもなんでもなく、隙間だらけである。 それでも、私たちの視覚を通すと、それは線として見える。 もう一つ例えを出すなら、塩と砂糖が同じようなビンに同じように入れられていて、それを100m先からみた時、私たちにはそれが塩か砂糖か区別がつくだろうか。ただの白い粉としか見えないだろう。塩は塩でありつづけるのだけれど、私たちの視覚を通せばそれは「わからない」という答えになる。視覚を通すことで、自分の中の真実は真実でなくなることもある。
結局のところ真実とは視覚などの感覚のフィルターを通して考える物ではない。そういうものではなく、「ただそこにある」ことこそが真実なのである。
・・・と、そんなことを仕事中に考えてみました。 特に意味はない。 ただ、プログラムのテストをするときにテキストエリアを埋める必要があって、何書こうかな~、と思ってつらつらと書いてみた。 で、OKボタンを押すと、
『300文字以内で書いてください』。
まぁ、世の中そんなものだ。 コンピューターは常に真実を返すのだ。
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9月13日(火)22:59 | トラックバック(0) | コメント(2) | 日常 | 管理
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目に見えなくとも
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| 目隠しをして「真っ青な部屋」と「真っ赤な部屋」に入った時どのようなことがおきるのでしょうか? 目から光が入ってこないのだから色を見ることはないはずですが、そのような状態で感じる体感温度は3度違うと言われています。これは、人間は肌からも色を感じることを指します。 よく冷え性の人は赤い下着をつけるといい、なんていいますが、これも迷信などではないということです。 目に見えるものがすべてではありません。 また逆に視覚に頼りすぎると誤った結果になるという実験もあります。
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by 村崎武龍 | 9月21日(水)14:59
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真実はかく語りき。
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| 真実は真実で、そこに人間が意味を見出そうとするから解釈が異なって、複数の真実がうまれてしまうのではないか、と常々思うわけです。 たとえば、女の子が涙を流したという現象だけをとれば、それは真実なのだけれど、そこに意味を加味して『悲しいから泣いた』と解釈すると、それは必ずしも正しくはないわけです。実はごみが目に入っただけかもしれない。 でも実はそれは涙ではなくて目薬かもしれないわけで。そうなると、目に見えるものが真実だという定義もまた崩れてしまいます。じゃあ、『女の子の目に液体が付着している』と言い換えればいいかというと、それもまたCGである可能せいもあり、ホログラムである可能性もあり、涙の形をしたシールかもしれない。 結局のところ、自信を持って『これが真実だ』といえることは世の中ほとんどないのかもしれません。 真実とは(もしくは僕たちが真実だと思っていることは)社交辞令の飲みに行く約束のようにあやふやなものです。
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by もちくん | HP | 9月22日(木)03:04
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