胡乱な日常の真相
 
偶然と必然の日常をレビュー。
 


『海辺のカフカ』読了。

最近、村上春樹の『海辺のカフカ』を読み終えた。

仕事を辞めたこの時期にこの本を読んだというのは、実に象徴的な感じだ。
タフな15歳の少年が旅に出る、という話なのだけど、僕はタフでもないし、15歳でもない。
それでも、いろんな旅(物理的にも精神的にも)をするという意味では、共感できる部分があったし、僕は読みながら一緒旅をしていた。

実際のところ、村上春樹の考えているところの10分の1もわかっていないと思う。
世界観が広がりすぎていて、どことどこがどうつながっているのか、関係性などがわからなくなってきたりする。
いや、全てがつながっているということはわかっている。
それはわかっているのだけど、それでもなお謎が多い。
AとBが関連していて、BとCは関連している。
そうすればAとCもなにかしらの関連はあるのだけど、そこの関連が希薄であったり逆に濃厚すぎて、その揺さぶりに混乱させられる。
最終的にも結論のようなものは何一つかかれていないし、決定的事実はない。
だから全てがメタファー(暗喩)かもしれないし、全てが真実そのままかもしれない。
その境界線が実に曖昧で、うまい。
物語に引きずり込まれて、そのまま一番深いところまで引きずり込まれたまま終わる、そんな感じだ。

印象的だったのは、
『自分がそういう風に想像したということが大事なんだ』
といった意味の言葉だ。
こういうような文章がよく出てくる。
実は事実よりも、そのことを自分がどう思っているか、ということが大事なのだ、ということだと僕は解釈している。
僕たちは事実をあまりにも大切にしすぎるし、そのことに捕らわれすぎる。
でも本当に大切なのは、それをどう解釈・想像するか、どう自分の中に取り入れるのか、ということだ。
そして僕たちはあまりにもその想像をしなさ過ぎる。
受け入れることに慣れすぎて、自分で考えて行動するということができなくなっている。
自分で判断が出来ない。
それは実は人間の本質に関わることなのではないか、と思う。
そして、僕たちはその想像に責任をとらなさ過ぎる。
想像すると言うことはそれ自体が自分自身の分身であり、パラレルワールドであり、新しいことの始まりである。
それを作り出したと言うことに責任をもつべきなのだろう。
それはつまり、自分自身なのだ。
うまくいえないけど。

まぁ、そんな感じで、たぶんほとんど村上春樹の意図するところは僕に伝わっていないのだろうけど、色々考える機会を与えてもらったので、それだけでもよかったと思う。
そのうち、もう一回じっくりと読み直してみたいところだ。



11月2日(水)08:13 | トラックバック(0) | コメント(3) || 管理

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コメント

境界線

『海辺のカフカ』を私は読んでいない。
しかし、ブログのコメント「僕たちは事実をあまりにも大切にしすぎるし、そのことに捕らわれすぎる」には同意する。それは客観的な事実かどうかは分からない、おそらく主観的かつ表面的な事実だろう。自分で境界線を引いた範囲内での事実ということだ。
「そして僕たちはあまりにもその想像をしなさ過ぎる」というのにも同意する。表面的なものの背後にあるものを想像しないのだと思う。
私たちはあまりにも境界線に縛られている。それは本来はないもの、何かと何かを別けるために便宜上ひかれた境界線、他人から説明され続けてきた境界線を何の疑いもなく受け入れているのだと思う。
自然界では境界線はない。海岸線は区別するものでなく海と陸が接するところだ。片方がなければ存在しないものだ。水平線だってそうだ。線とは何かと何かを別けるものではなく繋ぐものだ。右のない左だけの世界というのはないし、紙の表だけ欲しても必然的に裏がついてくる。世界がそういうものだという想像力が欠如しているのではないかと考える。概念というのは便利でその概念を持ち出したとたんにそれがあたかも単体で存在するかのような錯覚に陥る。
しかし、それは誤りで、本来世界とは境界線があやふやなものなのだと思う。
それは様々な糸を織り込んだ布のようなものだと思う。どこかの糸が引っ張られればそれは全体に影響を及ぼすし、どこかの糸がほつれたり切れたりしたらそれは全体に影響を及ぼす。
戦争や環境破壊などはそういった想像力が欠如しているからおきるのだろうと思います。
では私たちができることは何でしょう?
せめて自分の手が届く範囲のことは想像しそれにともなう責任をとれるようにしておきたいと願う。


 by 村崎武龍 | 11月2日(水)11:56

宗教嫌いのそのわけ。

村崎さんの意見にはいつもいつも、なるほど、と思わされます。
例えば、僕が蹴った小石でだれかが転んで、転んだ拍子に家の鍵を無くして家に帰り着いたら鍵がなくて家に入れずに、大事な電話がかかってきたのに出れなくて、人生が変わった、なんてこともありえるわけです。
僕らが少しでも行動するということは、そういう影響を世の中に与える可能性があるということです。
僕たちはそのことを想像しなさ過ぎる。
別に歩くたびにそれを考えろ、と言っているのではなくて、それだけの可能性があるということを常に意識して、出来るだけ自分の行動には責任を取れるようにする、ということです。

僕が宗教が嫌いなのは、宗教にはその想像力がないから。宗教に入っている人は、その想像力がないが故に、宗教の理念などに頼って、自分で想像することを止めているんじゃないか、と思うのです。
だから、宗教同士で戦争をしても、みんなそれに素直に従って殺し合いをする。そこには想像も創造もない。
もっと自分の意見をもっていれば、そして事実にとらわれすぎなければ、特に宗教は必要ないのではないか、と思うのです。
こんなことを言うと宗教に入っている人からは攻撃を受けそうだけど(笑)


 by もちくん | HP | 11月4日(金)09:01

そうね

宗教も境界線の一つだよね。宗教もいろいろだと思うので、否定する団体もいるのでしょうが、独善的なところは、自分たちが正しい、他の教えは間違い、みたいな考え方教え方をしていて境界線そのもの。
ちなみにわたしは無宗教。だからといって宗教そのものを否定はしません。
初詣にもいくし、節分にはまめまくし、結婚はキリスト教の教会(オーストラリア)だったし、観光でお寺いくし、家を建てるときは神主に地鎮祭をしてもらったし、クリスマスは家族でパーティするし(笑)。
最近20世紀最大の歌手と呼ばれるスラット・ファテ・アリ・ハーン(パキスタン人)のCDを買った。ヌスラットは既に故人(49歳で亡くなったそうだ)。彼は「カッワーリー」という伝統音楽(イスラム神秘主義の音楽)を歌う歌手。
彼は異文化間交流を積極的に行い、その活動は多くの保守的リスナーに反感を買った。映画『最後の誘惑』ではピーター・ガブリエルと、『デッド・マン・ウォーキング』ではエディー・ベダーとサウンドトラックを共作し、最近ではマッシヴ・アタックが彼の曲をリミックスしている。ヌスラットは情熱的な甲高い声で知られ、それは自由奔放な鳥のように舞い上がる。時にはほろ苦く、時には愛撫するような声を放つヌスラットは、イスラム教徒でないリスナーをも恍惚へと導くことが出来る。上質のJAZZのような素晴らしいインプロビゼーションに満ちた歌だからでしょう。
彼になかむらとうようがインタビューした際、彼は、わたしはさまざまな愛の歌を歌うがそれを神への愛ととらえるか、男女の愛ととらえるかはリスナーの自由、聴き手がイスラム教徒でもキリスト教徒でも気にしない、人の心は同じだから、と語ったそうだ。
世界中の人が彼の歌を愛するのは、国境を越え宗教を越えたものがそこにあるからなのだろう。
異文化交流かくあるべし、という感じだろうか。
*興味があって聴いてみる場合はアルバム「Night Song」NUSRAT FATEH ALI KHAN & MICHAEL BROOKの「My Heart, My Life」がオススメ!夢幻の世界を漂う心地よさ!
アマゾンで試聴用サンプルありまっせ!
*マイケル・ブルックはワールド系最高峰レーベルRealworld屈指のギタリスト(カナダ人)。


 by 村崎武龍 | 11月4日(金)11:20


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