胡乱な日常の真相
 
偶然と必然の日常をレビュー。
 

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結納。そして結婚。

某友人君が結納をするそうだ。
おめでとうございます。
長い間彼女と付き合ってたので、どうなることやら、と思ってたので、ほっと一安心、という感じだ。
中学高校大学と、おなじ学校で。
たまに(ごくたまに)飲みに行ったり、話したりしていた。
優しく語り掛けるその語り口は独特で、またそれがなんとも雰囲気とあっている、気のいいやつである。
話の内容は多岐にわたって、そのどれにも自分の考えをもっている。何も考えずに生きている人が多くなってきた世の中で、その知的好奇心は僕にはすごく輝いて見え、それがまた羨ましくもあった。
それでもそんなことをひけらかしたり自慢げに言ったりせずに、優しく根気よく相手がわかるまで丁寧に説明してくれる。(あまりにも専門的過ぎて自分の世界に浸ってしまう傾向があるにせよ)
時としてそれは難解すぎて僕には理解できないこともあったけど、それはそれで話を聞いているだけで楽しかった。自分が全く知らない世界のことを聞くのはたとえ内容が完璧に理解できなくてもおもしろいものだ。自分もちょっと賢くなったような気になる。賢さのおすそ分け、といった感じで。
いつまでも子供っぽく、それでいて大人っぽく、そんなやつだ。
そんな友人君が結婚するというのは、なんとも不思議で、でも心の底から祝福できる、そんな出来事だ。

世界は君の脳が活躍する舞台としては狭すぎるし、世の中が君の成果によって飛躍的に成長するのを待っている。(と、僕は本気で思っている)
これからも頑張ってください。
いつもの柔らかい笑顔がこれからもずっと続くことを祈っております。

彼女さんへ。
これからもあの無邪気な子供っぽさにあきれずに支えてあげてください。そしてダメな時は叱ってあげてください。でも叱った後にはビールでも渡してあげてください。それだけで喜ぶはずなので。



5月12日(木)02:26 | トラックバック(0) | コメント(0) | その他 | 管理

子供技。

面白いサイトを見つけた。
子供の時によくやったり言ったこと。
うん、いくつか知ってるのがある。
こういうのって、たぶん地域性とか方言とかいろいろ関わってくるんだろうなぁ。こういうのを真面目に社会学的に研究している人とかもいるに違いない。
伝承とか伝説ってのも意外に事実に基づいていたりするし。実は身の回りの単純なものも複雑に絡み合った因果関係の上に成り立っていたりね。

とまぁ、堅い話は抜きにして、単純に見て楽しめます(笑)



5月11日(水)03:15 | トラックバック(0) | コメント(0) | ネット | 管理

テレビを消すということ。

朝起きると、とりあえずテレビをつける。
家に帰ると、とりあえずテレビをつける。

この『とりあえず』というのがクセモノで、無意識のうちちにテレビに視線をとられて、いつのまにやら時間がたってしまう。
たぶん、僕の人生の中で一番の時間の無駄使いはテレビを見た時間だろう。

確かに有益な情報もあるし、おもしろくて笑えるときもあるんだけど、大抵が見ても見なくてもいいようなものだ。
自分の好きなものだけを絞ってみればいいのだけど、いつのまにかチャンネルをパチパチと変えながら違う番組を見ているのだ。
あれがテレビの怖いところだ。たぶん、チャンネルを変えるのに5分かかるようなシステムがあれば、僕のテレビを見る時間は激減するはずである。
あの手軽さがいけない。
テレビをつけるのだって、ボタン一つで簡単にできてしまう。毎回5つのパスワードを入力しないと見れないようになっていたら、めんどくさくってみないだろう。

一度、真剣に「なぜおもしろくもないのにテレビをつけるのか」と考えたことがある。
結論としては、「視界に動きが欲しいから」だ。
一人暮らしをしていると(一人暮らしじゃなくても)、自分の部屋の中では動くものがない。たとえ音楽をかけていても、それは聴覚を刺激するだけで、視覚にはなんの刺激もない。
すると、いろんなものが停滞して、陰鬱に感じられてしまう。
それが寂しくて、なにか賑やかにしてやろうという思いで、ついついつけてしまうのだ。
効果的といえば効果的なのだけど、効果がありすぎて困る。
面白い番組が終わっても、その時間帯にやっている中でもっともましな番組(面白い番組ではない。ましなだけだ)を探して無理矢理に見てしまう。そうなるともう抜け出せないチェーンにはまる。そのうちにまた面白い番組が出てきてまた消せなくなる・・・という悪循環。物を捨てるのが難しいように、テレビを消すのもまた難しい。
もう一つの理由は、これはごく個人的なことだけど、小さい頃にあまりテレビを見せてもらえなかった、というのがある。これは兄とも意見が一致しているところだ。その時の反動で、自由にテレビが見れるようになるとたがが外れて、延々と見てしまうのだ。
これはテレビは毎日30分だけ、と時間制限をされていた人にしかわからないだろう。

最近はこれではダメだ、と思って、テレビを消して、電器を暖色系にして、音楽をかけるようにしている。そうすると、結構時間がまったりと流れていつもより時間がたっぷりあるような感じになる。そして、いつもテレビで結構な時間を無駄に過ごしているんだなぁ、と実感する。たぶん、忙しい毎日の中にはそんな時間もまた必要なのだ。

そんなことを言いながらもやっぱり朝起きるとついスイッチを入れて見てしまう。
ならコンセントを抜いておくか、いっそのこと捨ててしまえばいいのだけど、それはそれで見たい時に見れないから困る。なんともわがままな話だ。

そんなことで、僕の中での『大人』の定義は、
『テレビを簡単に消せる人』である。



5月10日(火)01:56 | トラックバック(0) | コメント(5) | 日常 | 管理

ハレルヤ。

人生生きていると、いろんな日があるけれど、僕の人生の中で今日ぐらいハッピーな日はかつてなかったように思う。コロンブスが大陸を見つけた時だって、こんなにハッピーではなかっただろう。
僕たちは確実にいろんなものを落としながら年を重ねて生きているけれど、落としているだけじゃないんだ、といことを今日はあらためて実感した。
こんなに素敵な日があるんだから、人生捨てたもんじゃないな、と思う。
全ての人にハレルヤ!

~ 中村一義 『ハレルヤ』より ~

僕や、あなたも、自分の声で、
やがて祝える日があるとして。

傷、歓びも、明日の夢、
ふわっと、みんな大空を舞うとして。

舞い上がれ、さぁ、上がれ、
舞い上がれ、願いを言え。



5月9日(月)01:37 | トラックバック(0) | コメント(0) | その他 | 管理

眠れない夜。

大抵はいつもすぐに寝れるのだけど、眠れない夜というのもまた、確実に存在する。
昨日も朝まで寝れず、夜明けを迎えてしまった。
誰にだってそんな日は一年に何回かはあるだろう。
僕はそういう時は、もう寝れないのはわかっているから、無理に寝ようとしないことにしている。
特に次の日が日曜日であればなおさらだ。
ゆっくりネットしたり本を読みながら朝まで過ごす。
そして朝方に眠りにつく。
でも、そういうときの眠りというのは大抵浅くて、酷い夢を見る。
昨日見た夢は、北村薫の『ターン』のような夢だった。
僕はどこかの部屋にいて、そこから抜け出そうとするのだけど、抜け出せない。ドアから出ようとすると、そのドアの先はまた同じ部屋につながっていて、延々とループしているのだ。
結局どこにもいけず、絶望して気が狂いそうになったところで起きた。
起きてからもしばらくは心臓がどきどきしていた。夢から覚めて真剣に安心したのは久しぶりだ。
どうせ見る夢なら楽しい夢を見たいものだ。
それにしても、ああいうありえない状況を夢の中では簡単に信じてしまえるというのはどうしてなのだろう。
暗示とかにかかりやすい体質なのかもしれないなぁ。



5月8日(日)13:03 | トラックバック(0) | コメント(0) | 日常 | 管理

武勇伝。

凄い奴らが出てきた、と素直に思える瞬間というのはそう多くない。
お笑いブームが巷間を騒がせているが、だんだん飽きてくる、というか、どれも同じに見えてくる。
どのグループもが差別化をしようとして奇に走り、その結果没個性的なものになってしまうというパラドックスに陥っているように思える。

たぶん、ブームのおかげで競争率が高いのだろう。
そういう世の中にあって、どのようにして目立つかというのは実に難しい問題である。
それぞれ創意工夫をしているのだが、それをみんなが面白いと思って、さらに新しいと思うかはまた別の問題なのだ。

そんな中で、最近すげー奴が出てきたと思わせてくれたのが、『オリエンタルラジオ』である。
ネタは武勇伝。
踊りと歌と武勇伝ぽくない武勇伝をいいリズムで展開していく。
これにはやられてしまった。

「武勇伝、武勇伝、ぶゆうでんでんででんでん♪」

と延々続けるのだ。
これにまたメロディがのっているからたちが悪い。
もう一度聴いてしまうと耳から離れなくなってしまう。
卑怯なくらいにおもしろい。
系統的にはあるあるネタになるんだろうか。
「あるある」というよりは「ないない」か。
その辺の解説は誰かに任せるとして。
とにかくおもしろいです。
最近の僕の中でのヒットはアンガールズだったんだけど、あれとはるぐらいにおもしろい。
一見の価値ありです。

というわけで、僕の耳にはいまも
「武勇伝、武勇伝、ぶゆうでんでんででんでん♪」
という音楽が鳴りつづけているのである。

仕事にならん・・・。



5月5日(木)15:18 | トラックバック(1) | コメント(6) | テレビ | 管理

30度。

今日、ふと温度計を見ると、部屋の温度が30度になっていた。
・・・真夏並やん。
まだ5月である。
それも始まったばかり。
なんちゅう部屋や。
ということで早速クーラーを入れてみた。
涼しいが、5分もすると寒くなる。
これはこれでだめやな。

毎年のパターンなら、
うちわ→扇風機→クーラー
と遷移していくんだけど、今年はうちわも扇風機もすっとばしてクーラーに行ってしまった。
うちわはあおがないといけないし、扇風機はまず掃除して組み立てないといけない。
それがめんどくさい。
クーラーはボタン一つ押しさえすればいいのだ。
う~ん。
これが科学がもたらした堕落か。
と思いつつ、その誘惑に勝てるはずもなく、またボタンを押してしまうのだった。。。

今からクーラーをつけているようでは、これから先が思いやられる。



5月5日(木)02:09 | トラックバック(0) | コメント(0) | 日常 | 管理

伏見稲荷と迷子とたけのこ。(後半)

~前半の続き~

階段は森の中にずっと続いていて、木の枝葉が日光をさえぎっているので、意外にひんやりとしていた。
快適な空間の中をひたすら登る。
登る登る。
マップをみながらここはとおったと確認しながら、どんどん進んでいく。
途中何箇所も休憩所があって、疲れてもすぐに休めるようになっていた。
結構参拝者に親切設計だ。サービス精神にあふれている。これまた見習わねばなるまい。
最初のうちは慣れない階段で息が切れたけど、途中からはその階段にも慣れて、そんなに苦しくなくなった。
なによりも空気が綺麗で澄んでいるのがいい。
ちょっとしたハイキング気分で。
途中、何箇所かで休憩したりお参りしたりしながら(途中何個も神社があった)、意外に短時間で頂上まで到着。
頂上にはちょっとした社と店があったけど、それ以外には特に何もなく、お参りしてから、すぐ下山する。
下山し始めてすぐに、横道があることに気づいて、そっちのほうへ行ってみようと冒険心がうずきだした。
そうなってしまうともう行かずにはいられない。
行きたい時に行くのがいいのだ。
勢いで、行ったれ!と思っていってみると、なんだか雲行きが怪しくなってきた。
だんだん鳥居はなくなり、ついには山道になって、最後には造りの粗い急な階段になった。
ん~。
まったく見当はずれだったようだ。
でも途中で引き返すにはまた登らなくてはいけないし、途中まで下ったのならそのまま下るべきだろう。
ということで、前進あるのみ。
どんどんおりていく。
結構時間をかけて、下まで降りきったら、全く見たこともない道に出た。行きには絶対に通っていない道。
本殿とは全然違う方向らしい。
薄暗い雰囲気で、怪しい気配がたちこめる。
どこ?ここ。
・・・歩けばわかるさ、ということで、しばらく道なりに歩いてみたけれど、全く駅らしきものは見えず。
延々と竹林が続く。
どうやら・・・これは・・・確実に・・・
迷子だ。
迷ったらしい。
25歳にして迷子。それも山の中で。
なかなか味わい深いものである。
非日常感と冒険心に火がつく。
竹林の中にはえているたけのこを物欲しそうに見ながら、あっているのか間違っているのかわからない道をどんどん歩く。
周りを竹林に囲まれた道をひたすら歩くというのはかなり精神的に疲れるものだということを今日はじめて知った。なんとなく異世界にいるような、タイムスリップしたような気分になる。
まさにかぐや姫の世界だ。
結局、2回、人に道を尋ねてから、なんとか京阪藤ノ森駅に到着。
正直、民家が見えてきた時と、駅についた時にはほっとした。
親切に道を教えてくれたおばちゃん、ありがとう。
大雑把で適当なことを言ってくれたおじちゃんも、ついでだからありがとう。
そんなこんなで、よくわからない冒険(別に冒険するつもりはなかったんだけど、いつのまにか冒険になっていた)は無事終わった。
駅に着くと、そこは全くの日常で、そこには非日常のかけらもなかった。
突然始まった物事は、終わりもまた突然なのだ。

~おまけ~

結局本殿に再度くることはなかったなぁ。
ということでみなさん、伏見稲荷大社の頂上から降りる時、地図にない横道にそれると大変なことになりますよ。
山は危険です。
そのかわり、一風違った伏見稲荷を体験することはできます。
あまりおすすめしませんが(笑)
時間的には2時間ぐらいで、確かにネットで調べたのと同じぐらいの時間だった。
でも、体感的には4時間ぐらいな感じだった。迷ったので。。。



5月4日(水)03:41 | トラックバック(0) | コメント(0) | 日常 | 管理

伏見稲荷と迷子とたけのこ。(前半)

突然だけど(いろんな物事はいつも突然始まると相場が決まっている)、今日は伏見稲荷大社に行って来た。
なぜといわれるととても困る。
行きたくなったから行ったのだ。
なんで梅田じゃなくて伏見稲荷大社?ってみんなに言われそうだけど、それは、なんでコーンポタージュじゃなくて味噌汁なの?っていうようなもんだ。
食べたい時に食べたいものを食べるし、行きたいところに行きたいところに行く。
それが人生の楽しみってもんです。

なにはともあれ、伏見稲荷大社に行ってきました。
行こうと思ってネットで調べてみると、意外に広い。
んんん。
なんか千本鳥居があってそれで終わりと思っていたのだけど、そうではないようだ。
山全体を下から上までぐるりと回るようになっている。
でもおもしろいのは、本殿は一番下の行きやすいところにあって、一番上にはあまり大きな社がないことだ。
普通そういうのってのは一番上に凄いのがあるんじゃないのだろうか?
その辺はよくわからない。
でもまぁ、そういうつくりになっているのだから仕方がない。
で、一番下が本殿だとわかっていても、全部回ってみたくなるのも人間の悲しい性だから仕方がない。

ということで。
2時過ぎにJR伏見稲荷駅に到着。
そこから登頂を目指す。
快晴。
普通に歩くだけでも汗が出るぐらいだ。
ネットで調べたところによると、4kmの道のりで、2時間ぐらいかかるらしい。
いっちょいったろかいな。
特別な装備はなしで、がしがしと階段を登っていく。
本殿は入ってすぐのところにあった。
作りはでかいけど、簡単にこれるだけにあまりありがたみを感じない。
いつでも来れそう、という思いがあって、帰りに来たらいいか、と素通りする。
では登頂開始。
階段を登っていくと、すぐに朱い鳥居が大量に見えてきた。
それは永遠に続くかのように延々と繰り返して階段の上を覆っている。
結構すごい景色だ。
それにしても、全ての鳥居に奉納者の名前が刻んである。
一本(鳥居を数える単位が『本』なのかどうかはわからないけど、僕は知らないので無理矢理『本』とする)何十万か何百万かするのだろう。
それを考えるとかなりすごい。
さすがは商売繁盛の神様だ。
考えることがえげつない。ねずみ講もびっくりだ。
一度鳥居を立てた人は自分の鳥居を見に、毎年のように参るだろう。
そのたびにお守りを買ったり破魔矢を買ったり、何か奉納したりしていくに違いない。
リピーターもがっちりと獲得しているのだ。
これは見習わねばなるまい。
そんなことも考えつつ、登っていく。

~長いので後半に続く~



5月4日(水)03:39 | トラックバック(0) | コメント(0) | 日常 | 管理

『羊をめぐる冒険』読了。

読みごたえのある作品だった。
最後はちょっと鳥肌立つぐらい。

物語の内容は、まさに題名どおり、羊をめぐって冒険をする。
まぁ読んでのお楽しみってことで。
物語の中でも
「端折ると意味がなくなっちゃうんだ」
と言っています。
なので下手な概説などないほうがよいでしょう。

いろんなものが音を立てて崩れつつ、それでも確かに時代は前進して。
読んだ後には、残酷なまでの時の流れを目の当たりにする。
僕たちは一秒一秒をくしゃくしゃと丸めて後ろに放り投げながら歩いているのだ。
そしてそれらはいつのまにか凄い高さの山になっている。
ある日振り返ってそれを見た時、その高さに呆然とする。
そこには甘美な過去と残酷な過去が入り混じって、僕たちに話し掛けてくる。
「昔はこんなんだったぜ」
それは心地よくもあるし、痛々しいこともある。でもなんとなく居心地がいいのだ。
それでも、僕たちはその山を蹴散らして先へ進まなければいけない。
過去は過去でありさえすればいい。
でも未来はこちらから歩かなければ近づかないのだ。
だから僕たちはどんなことがあっても前へと歩みを進めるのだ。
そんなことを考えさせられるような作品だった。

村上春樹作品の主人公は、大抵物分りがよくて、どこか達観している。
いろんなことを簡単にあきらめて、でも何か心の奥には芯があって。
ゆずれないところはゆずらない。
彼らには僕には見えていないいろんなものが見えているんじゃないかと思うことがしばしばある。
彼らはお金で買えない大切なものを持っているし、それはどれだけ苦境に追いやられても色あせることはない。
自分の意志とは違うところで何かが動いて、それに巻き込まれつつも、自分を見失わない。
だから彼らの行動は好き勝手に動いているようで、でも最良の道を選んでいるように思える。
それは会話の端々にも出てくる。
彼らは何か大変なことが起こったときに、
「やれやれ」
とよく言う。
やれやれ。
その一言で済ましてしまう。
これはすごいことである。
単なる諦めではなくて、ここでどうこう言っても仕方がないから先に進もうよ、という感じを含んでいる。
それは後悔や諦めや恨みなんかを肯定的に解釈した言葉だと思う。
やれやれ。なんて苦しいんだ。こんなことならこの道を選ぶんじゃなかった。
でも今僕はこのことをやらなければいけないんだ、っていう自分の中での確固たる価値観があるように思う。

僕が村上春樹の小説を読むのは、主人公のそんなところに惹かれるからだろう。
またそれを書いている村上春樹自身にも。
村上春樹の小説が今なお色褪せず読まれつづけているのは、そんな理由もあるんじゃないだろうか、とふと思った。

人生に一度ぐらいは村上春樹の小説にどっぷりとはまってみるのもいいかもしれない。

羊をめぐる冒険(上)( 著者: 村上春樹 | 出版社: 講談社 )羊をめぐる冒険(下)( 著者: 村上春樹 | 出版社: 講談社 )



5月3日(火)03:02 | トラックバック(0) | コメント(2) || 管理


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